【わかりやすいフィリピンの歴史】 簡単3分で学ぶフィリピンの歴史

3分で簡単わかりやすいフィリピンの歴史

フィリピンの歴史を簡単に知りたい!

そんな入門者のあなたのために簡単にわかりやすくまとめました!

それではさっそくいきましょう!

 

紀元前(BC)のフィリピン・・・

約2万年前

フィリピンの初期の住民は背丈の低いネグリト人でした。

 

紀元前4000年頃

インドネシアやボルネオからマレー人が上陸。

沿岸部に住んでいたネグリト人は追われ山の中で暮らすようになってしまいます・・・

 

紀元前500年~13世紀頃のフィリピン・・・

インド、イスラム、中国などの文明を持つ新マレー人が移住を始めたことでフィリピンにも文明が広がります。


この時代に稲作や、水牛飼育、織物,染色などが少しずつ広がったのでしょう。

 

西暦300年から700年頃・・・

東南アジアの各島々で、海洋の恩恵で生活をする海洋民族が活躍。

インド仏教やヒンドゥー教の影響をもつ、スマトラ島・シュリーヴィジャヤ王国やジャワ島・マジャパヒト王国がフィリピンに文化を発信。

このためタガログ語にはサンスクリット語単語があるとされています。

 

西暦900年前後のルソン島では・・・

モンゴル帝国に敗れた中国王朝の残党が海を渡りトンド王国を築きます。

トンド王国は、中国・東南アジア・インド・アラブなど中継貿易で栄えた海洋国家でした。


ルソン島北部のイロカノ語には中国語が由来となっている単語がいくつもあります。


一部、わかりやすいものを例としてあげてみました。

 

意味

イロカノ語

中国語

 

Bakya(バキャ)

バク () + キアー ()

 

ライスヌードル

Bihon(ビホン)

() + フン(粉もしくはヌードル)

 

Payong(パヨン)

パイ ()  + ヨン (陽光)

 

父もしくは年上の人

Tatang(タタン)

(大きい、高い、年上)  + タイ (年代)

 

Tsa(シャー)

シャー ()

 


その頃ミンダナオ島では・・・

ブトゥアン王国が栄えていました。

こちらも中継貿易で栄えた海洋国家で10世紀ごろには、ベトナム南部や、ご近所のインドネシアと交易を行っていたようです。

11世紀頃ではブトゥアン王国はフィリピン諸島の交易・商業の中心でした。

 

イスラムが多くやってきた14世紀後半以降・・・

14世紀後半には、アジアや中東地域で海上交易を行っていたイスラム商人がたくさん訪れるようになり、その影響からフィリピン諸島にもイスラム教が広まります。


ミンダナオ島西部では・・・

イスラム系の二つの王国、マギンダナオ王国とスールー王国が強い力を持っていました。


マギンダナオ王国はマレーシアから移ってきた王国で、16世紀の初頭以降19世紀までミンダナオ島に強い勢力をもちます。

スールー王国は、1380年にイスラム教をもたらしフィリピンに最初のモスクを建設したイスラム系の王国です。


同じ地域に存在した2つの王国のですが、対立関係はなく、むしろマギンダナオ王国とスールー王国間での結婚も設けられ同盟関係を結んでいたようです。


こういった歴史的背景もあり、現在でもミンダナオ西南端のサンボアンガ半島からミンダナオ南部のサランガニにかけての一帯はムスリムの多い地域となっています。


スペイン植民地時代(1521~1898)

15世紀から19世紀はスペイン帝国が世界各地を侵略した時代でした。


そしてフィリピンもその内の一国だったのです、、。



CanBea87 [CCBY-SA4.0], from Wikimedia Commons

16世紀(1501~1600年)


shankar s. from Dubai, united arab emirates [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

マゼラン率いるスペイン船団がフィリピンへ到着します。


これによりスペインによるフィリピンの侵略が始まります彼らは武器を使い次々とフィリピン各部族を訪れてはスペイン王への服従とキリスト教への改宗を要求します。

この要求に各部族は降参し次々と服従していくこととなります。


ここでフィリピンの英雄ラプ=ラプが登場します。


英雄ラプ=ラプは、イスラム系の族長で、彼はマゼランを完全拒絶し屈しませんでした。


むしろマゼランは、ラプ=ラプ討伐のため軍を派遣しますが、巧みな戦術をつかうラプ=ラプ軍に打ち取られ、リーダーを失ったマゼランの配下たちはマクタン島からは撤退していきます。


今でもラプ=ラプの名は語り継がれ、島には彼の銅像が勇ましくたっています。




こうしたラプ=ラプの功績がありながらも、サラゴサ条約をもってフィリピンは正式にスペイン領土となってしまうのです。


スペイン船団がサマール島とレイテ島(どちらもビサヤ諸島の島)に到着し、フェリペ皇太子にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス(フェリペナス諸島)」と命名、これが現在の国名フィリピンとなります。


それからはフィリピンにスペインの入植者がたちまち増えていきます


ですから、フィリピンにはスペイン系の家系名を継ぐ人たちがたくさんいますよね。


Santos(サントス)
Reyes(レイエス)
Cruz(クルス)
Garcia(ガルシア)
Mendoza(メンドーサ)
Torres(トーレス)
Ramos(ラモス)
Aquino(アキノ)

などはフィリピンにおいてもとても多い苗字
ですね。

 

19世紀末|フィリピン人による民族運動強まる

19世紀後半になると、お金持ちのフィリピン人層が増えてきます。

それに連なってフィリピンからスペインへ留学する学生が増えていきます。


こうした知識人達は、フィリピンにおけるナショナリズム、いわゆる国家や民族の重要性に気付き、
徐々に本国政府への改革要求を強め民族運動を展開していくのです。



しかし、スペイン側ももちろん黙っていません。

民族運動が強まったことで、スペイン本国から軍隊を派遣して革命鎮圧を図ります。

 

米西戦争 1898年

そうこうしているうちに、アメリカ合衆国が第二次キューバ独立戦争に介入し、米西戦争が勃発します。


アメリカはフィリピンの独立を全面手助けるすることを約束しフィリピンへ上陸、
マニラにあったスペイン総督府を陥落させスペインとの戦闘を終結
させます。


まだ終わらない。アメリカによるフィリピン支配の到来 (1898-1946)

米西戦争に敗れたスペインは、アメリカにフィリピンの領有権を約2000万ドルで譲渡します。


その通りです、結局アメリカ-フィリピン間で結ばれた独立支援の約束は、果たされなかったのです、、。

 

米比戦争

約束を敗られたフィリピンもただでは終わりません。

1899年にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任します。


しかし翌年1900年にはアメリカに戦争で敗れ、アギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなりました。

こうしてアメリカ軍はフィリピン主要部を占領し、フィリピンはアメリカ合衆国の植民地となります

 

桂・タフト協定 1905年

この頃、日本は日露戦争(朝鮮および満州の支配権をめぐる対立)でロシアに勝利します。


アメリカは日本の韓国支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する形で、桂・タフト協定を交わします。

つまりお互いの支配する国を他国同士で認め合ったというわけです。

 

第二次世界大戦(太平洋戦争 1941-1945)

世界の歴史上最も恐ろしい戦争の始まりです。

1941年、日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争勃発。

1942年には日本軍はマニラを占領し、同5月には米比全軍が降伏を宣言します。

 

フィリピン第二共和国

日本軍がアメリカ植民地フィリピンを占領した後の1943年、フィリピンが独立を果たします。

日本はフィリピンに独立をさせますが、実際の内容はアメリカのしたことと変わりません、実質は日本がフィリピン支配を続けたのです。

 

『マニラの悲劇』という本の一部を紹介している記事をみつけたので、以下参照させていただきます。

※さっと読みたい方は飛ばしてかまいません。日本がフィリピンに犯した罪の一部が書かれています。

「1945年2月12日、月曜日、昼食をすませた直後、砲弾を避けるために我々は皆建物の南側の階段の下に集まっていた。
そこへ二十名の兵士を連れた日本軍士官が入ってきて二人の使用人を拉致し去った。
五分後、二人は戻されてきたが、どちらもひどく傷ついていた。
ついで士官は何か命令を下した。

ただちに兵士たちは、われわれに銃剣を向けはじめた。
男も女も子供たちも区別がなかった。
若干のものは、辛うじて階上に逃げることができた。
兵士たちは彼らを追いかけた。
若干の人々は礼拝堂の入口で刺された。
他のものは同じく堂内で刺された。
誰かが士官に抵抗しようとしても、たちまちピストルで討たれるか、白刃を浴びせられるかに過ぎず、その結果、刺突による負傷のほか、若干の人々はさらに重い傷をうけた。

子供たちの中には、二才か三才、またはそれ以下の幼児すらも混っていたが、
それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに遭ったのである。
刺突を終えると、日本軍は屍体を略奪し、階段の下に投げ込み、積み上げた。
生きている人々の上に屍体が重なった。
即死したものは多くはなかった。
少数のものは一、二時間のうちに息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため次第に衰弱していった。

兵士たちは出てゆき、やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。
午後の間、彼らはしばしばわれわれを監視するために入ってき、犠牲者の苦痛を見て笑ったり嘲ったりした。
われわれは、夜にいたるまで、そこにとどまっていた。
その間に、負傷者の多くが死んでいった。」
 
出典:『日本の原爆記録2』(日本図書センター、1991年)、121頁。

日本人戦没者の犠牲も、そしてフィリピンに与えた被害も、どちらもあわせて忘れてはいけないのです・・・

 

連合軍によるフィリピン奪回

1944年、アメリカ軍が日本軍を追いつめ日本軍は降伏、第二次世界大戦全体でのフィリピン人の犠牲者は110万人にものぼりました。


アメリカ軍と共にフィリピン帰還を果たしたセルヒオ・オスメニャ大統領に権力が戻り米自治領政府が復活するもアメリカによる徹底的な迫害が続けられ、親米政権が維持されることになります。

 

フィリピン第三共和国

第二次世界大戦後1946年、フィリピンは主権を獲得し、フィリピン第三共和国が成立する。


それでも経済的なアメリカ依存は抜けられず、実質的な独立を達成はできませんでした。

 

第二次世界大戦後~現在のフィリピン史 1946-2018

フクバラハップとの内戦

第二次世界大戦が終わりフィリピン独立を果たすも、内戦が終わらなかった、、。


フクバラハップは日本のフィリピン占領時に農民達の抗日運動から結成された団体でしたが、米自治領フィリピン政府による農民同名非合法化に伴い内戦が勃発、戦闘が繰り広げられます。


脅威を抱いたアメリカはフィリピン政府への軍事援助を強化、1951年にはフクバラハップは壊滅に追い込まれます。

 

1950年~1960年代

1956年、日比賠償協定により日比国交が回復。

1966年には毛沢東主導による中国の革命運動に影響を受けた第二次プロパガンダ運動が広がり、文化や教育のフィリピン化が進みます。

 

マルコス政権時代とエドゥサ革命 1965-1986

フェルディナンド・マルコスは、20年間にわたってフィリピン大統領を務めた政治家で独裁者でした。フィリピンの政治史上最も最悪な政治家といえるでしょう。



腐敗選挙を繰り返し、政治を私物化としていました。


1983年にマルコスの政敵である元上院議員ベニグノ・アキノが暗殺されたことをきっかけにマルコスの反体派はエドゥサ革命を勃発、これによりマルコス夫妻はハワイに亡命してマルコス時代に終止符を打ちます。

 

1986-現在のフィリピン・・・

・1986年、暗殺されたベニグノ・アキノの息子コラソン・アキノが大統領に就任。
・1990年にルソン島中部でバギオ大地震
・1991年にはピナトゥボ火山が噴火
災害が相次ぎアメリカ軍はフィリピンから基地を撤収。
・1995年、各地の軍事反乱が終息するが、
・1998年、市民デモ(ピープルパワー)が活発になり第二人民革命が起きる。
・2004年、 グロリア・アロヨが大統領選挙で当選するも選挙の不正がバレ国民に謝罪。
・2006年、日比友好50周年。
・2010年、 ベニグノ・アキノ3世が大統領就任。
・2016年、ロドリゴ・ロア・ドゥテルテが大統領就任。

ドゥテルテ大統領就任後、フィリピンの治安がぐっとよくなったといわれていますね。


その背景には麻薬ディーラーや使用者を徹底して罰したことが大きな要因としてあげられます。


やり方には賛否両論があげられますが、フィリピン人の多くからは「フィリピンは安全に暮らせる国となった」と喜びの声が多くあがっていることも事実です。

 

最後に

さて、3分で簡単にわかるフィリピンの歴史【必見】はいかがでしたか?


フィリピンの知識をもって実際に現地を訪れてみてはいかがでしょうか?



フィリピンに関しては、他にも豆知識となる記事を書いていますので是非お役立てくださいね。


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