【知りたい】ニュージーランド|マオリ族の歴史

ニュージーランド|マオリ族の歴史

 

アオテアロア(AOTEAROA)の歴史

 

ニュージーランドは他の国と比較すると歴史の短い国です。ですが、この国が経験してきた変化は計り知れません!

 

ニュージーランドの歴史はマオリと共に始まりました。

 

14世紀に優れた航海能力を使い、ポリネシア諸島の島ハワイキからアオテアロア(ニュージーランド)へ移住してきたのです。マオリ族の歴史は歌や物語によって語り継がれてきました、初期のマオリ民族には書き言葉が存在しなかったのです。

 

ニュージーランドの存在そのものは西洋人達に知られていませんでした、1642年までは。当初西洋人がニュージーランドに上陸した時代、マオリ達は自身のことを「タンガタ・マオリ(普通のひと)」と紹介していました。西洋人と区別をつけるためにそう呼んでいたようですね。それを発音しにくかった西洋人は「タンガタ(人間の意味)」を省き、「マオリ(普通)」と呼ぶようになったのです。

 

 

 

Land of the Long White Cloud (ランド・オブ・ザ・ロング ホワイト クラウド)

マオリの伝説で伝えられるように、ハワイキからやってきたクぺと一行はニュージーランドの第一発見者でした。彼らが元々住んでいたハワイキ付近での魚がとれなくなり、クぺは新たな地を探し求め、海流や風、星や鳥の動き、波のパターンなど自然を巧みに航海に用いたのです。

 

クぺの妻・クラマロティーニが現在のニュージーランドに初めて名前をつけたと云われ、その名が「アオテアロア(長い白雲のような土地)」なのです。クぺと一行は北島の一部とクック海峡(北島と南島の間)を探索し、北島のホキアンガは一番初めに名付けられた土地であったといわれています。

 

 

 

 

 

マオリ族|初めの暮らし in NZ

クぺによって航海能力やアオテアロア(ニュージーランド)の情報が仲間に伝達され、ワカ(マオリ族の大型カヌー)によって彼らは移住をしてきました。ニュージーランドはそれまで8000万年の間、単独で成長および進化を続けてきました。彼らが移住をしてきたころ、体長3.7メートル近くにもおよぶことのある飛べない鳥・モアは彼らにとって捕まえやすい最高の食料でした。

 

 

高タンパクな食事はマオリの巨大な人口増加を引き起こし、人々はニュージーランドは北島の端から南島の最南端まで広がっていきました。

 

その後、モアの絶滅など資源の減少が原因となり、マオリ内で身の安全や資源の確保のため動きが始まります。しだいに部族が形成されていき、部族間の紛争が生じることもありましたが、大抵は部族間の婚姻や交渉で収められました。他の部族による脅威が感じられるときは要塞化された施設「パ」に避難しました。

 

「パ」のイメージ

 

 

西洋人によるニュージーランドとマオリへのコンタクト

初のマオリ族と西洋人との出会いは本当に瞬間的なものでした。

 

1642年、インドネシアからオランダの船員アベル・タスマンが航海してきて南島のゴールデンベイに停泊をします。

 

そして船と遭遇したマオリの一人が「友か敵か」を判断する伝統的な行動をとります↓↓↓

 

 

タスマンはトランペットで応え、クルーの乗ったボートをマオリと対面するために船から降ろします。

 

しかしマオリはそのボートを打破することで四人のクルーの命を落とします。タスマンはニュージーランドを後にしますが、その際『ニュージーランド』という名前をつけます。そして現在のゴールデンベイはかつて『マーダーズベイ(殺人者湾)』と名付けられたのですが、幸いその名が残ることはありませんでした。

 

その先127年後まで、西洋人が上陸することはありませんでした、、。

 

 

 

マオリとキャプテン・クック

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1769年には、イギリス人とフランス人が混同する形でニュージーランドとマオリとの連絡のやりとりが生じていた。

 

キャプテン・ジェームス・クックの指令のもとにあったイギリスのほうがわずかにフランスよりも先を越していました。ジェームス・クックはニュージーランドの海岸を地図化することで西洋人にとって大がかりな移住を可能にしました。

 

しかしアベル・タスマンのマオリとの遭遇のときと似たように、イギリス人たちとマオリが初めて出会った時も最悪でした。北島のポバティ湾に停泊したとき、クック船長は一隻のボートを岸に送りました。遭遇の結果、何人かのマオリが殺され、ニュージーランドの歴史上にデリケートな問題をもたらします。

 

 

その翌日、クック船長はタヒチから連れてきたマオリ語に近い言語が話せるトゥパイアを引きつれてもう一度接近を試みます。

 

贈り物がマオリの人々に贈られました、が、前日の出来事のため彼らに敵対心を抱いていたマオリは彼らの武器を奪うと、同時に撃ち殺されます、、。

 

今度は三度目の正直で少々粗削りではありましたが、クック船長のボートがマオリのワカ(大型カヌー)に衝突を起こし、三人のマオリが船から飛び降りたところを捕獲します。クック船長はようやく自分たちが平和的に贈りものや食べ物、飲み物を渡すつもりできたと伝達することが出来ます。翌日、贈り物はマオリ達によって受け取られ岸へと運ばれます。

 

 

第一ヨーロピアン開拓者

皮肉的表現ですが、ようやく西洋人たちにとって、人を撃ち殺すことがフレンドリーな挨拶ではないことに気付くときがやってきます。19世紀前半、ヨーロッパやアメリカの捕鯨者達がアイランズ湾へしばしばやってくるようになります。

 

 

材木と亜麻が街(現在のラッセル)の中でトレードされました。事実上この街がニュージーランドの初めの首都ということになります。当時のラッセルは捕鯨者達が立ち寄っては、『息抜きとお楽しみ』の場所としたことから『太平洋のたまり場』と呼ばれていました。娼婦を抱いたり酒を呑んでは騒ぐ場となっていたのです。今日のラッセルはアイランズ湾の魅力的な海辺の町として足を運ぶ価値ある町の一つとなっています。

 

 

往来する西洋人とマオリ間の平和は、族外結婚などによって保たれました、事実、ヨーロピアンはマオリから保護、食料、労働が、マオリにとっては西洋人からのマスケット銃のような品が必要だったのでバランスが取れてたのです。

 

 

マスケット戦争

技術、交通、文字、宗教、マスケット銃など、西洋の生活様式はすぐさまマオリの生活に入り込んでいきました。

 

1818~1836年の間、「マスケット戦争」として知られるマオリ部族間同士の戦争が勃発します。北島の部族の一つ「ガプヒ族」はマスケット銃を調達し南下します。彼らは戦争をしては勝ち、勝っては戦争を繰り返しました。

 

しかし同様にマスケット銃を持つ部族と衝突するとガプヒ族は敗れます。ガプヒ族に勝利を収めたその部族1836年、彼らが最南端を支配するまで戦争を繰り返しました。

 

マスケット銃が各部族の手に渡るようになると、マスケット戦争は消滅していきました。

 

約2万人のマオリがこれら戦争で命を落としました。

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quotes: teara.govt.nz

 

 

ワイタンギ条約

1830年代、キリスト教宣教師はマオリの各部族にキリスト教へ回心するよう教えを説きます。ちなみに、この宣教師たちはワイタンギ条約を推進します。これは政治的合意を示すイギリス王権とマオリ族間における建国文書でした。条約はニュージーランドに国民国家と政府を設立することでした。

 

マオリは1840年2月6日にワイタンギ条約が調印された時に西洋人の利益を見て彼らの権威を受け入れます。しかし、西洋人とマオリの理解に対する矛盾のため、この文書をめぐる多くの論争があります。

 

ワイタンギ条約ワイタンギじょうやく、Treaty of Waitangi, マオリ語: Te Tiriti o Waitangi)とは1840年2月6日、ニュージーランド北島ワイタンギにおいて、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王権との間で締結された条約のこと。

 

基本的には、英語とマオリ語間での翻訳が正確ではなかったことが原因とされています。英語で書かれた条約では、「全てのマオリ族は英国女王の臣民となりニュージーランドの主権を王権に譲る」とあり、マオリ語ではこれ加えて「部族のチーフに地方自治体の権利を与える。」とありました。初めは問題が明確ではなかったが、西洋人の居住区が広がるにしたがって明らかとなっていきました。マオリ政府の権力は西洋人の居住区以外に適用されることがわかり、マオリは多くの土地を失う結果となります。

 

 

土地戦争

西洋人居住区の拡張は続きましたが、マオリは決して彼らの土地を戦いなしに放棄することはありませんでした。

 

1840年代から西洋人によるマオリの土地支配もしくはマオリによる西洋人居住区の略奪により戦争は何度も勃発します。西洋人は南島支配に関しては幸運に恵まれましたが、北島の中心部は困難を生じます。特に注目されるのがワイカト戦争(1863-1864)でした、この戦争はニュージーランドにおける最大の土地争いの戦争であり、重砲、装甲蒸気船、そして10のイギリス連隊が投入されます。

 

勝機の見込めなかったマオリが何度も局面で勝利しますが、最終的にはイギリスが数や兵器でマオリを上回りますた。結果、マオリの政治的独立は1916年に警察がマオリの最後の活動家ルア・タプヌイ・ケナナを聖地ウレウェラ山脈にて逮捕するまで衰退を続けます。

 

 

 

マオリ文化の復活(20世紀前半)

マオリの国政への影響力はしだいに弱まり、マオリ人口は劇的に減少していきます。

 

マオリ文化を活かし続けることはとても困難でしたが、強力なマオリの指導者たちは、マオリ社会を活性化させるために力を尽くします。

 

特に、ンガータ・アピラナは、マオリを国会に持ち込み、第一次世界大戦ではマオリの大隊、第二次世界大戦ではマオリの大隊を結成し、集会所の修復や建造を監督します。そして、一般的にマオリ文化の知識促進をします。

ンガータ・アピラナ
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quotes:thesapling.co.nz

 

この頃からは、マオリが西洋社会に適合していきます。多くのマオリは都心部に移り、マオリのコミュニティに留まるよりも街へ出て仕事を探すようになります。教育面でも、主にイギリスの学校教育を受けるようになります。。

 

 

20世紀中盤

西洋人による植民地化がもたらした影響に人々が徐々に気付くことでプロテストが発生するようになります。

 

1971年に初めてワイタンギデーでのプロテストが活動家グループ「NgaTamatoa」によって組織されました。似かよったプロテストは現在もまだ続いていますが、祝日ワイタンギの日はこれのために存在します。

 

そして現在、彼らが起こしたプロテストがニュージーランド社会に配置されているものは決して少なくありません。

 

・マオリの土地財産の一部が変換
・マオリ語学教育システム
・マオリによる漁業、養殖業や農業などの主要産業の取り組み開始
・テレビ、ラジオ、企業、観光事業など、マオリの企業
・より重要な政治的表現

 

今日のニュージーランドではマオリのアイデンティティはとても重要視されています。しかしながら彼らの文化的知識はまだ完全にニュージーランドの一般生活に適用されているわけではありません。

 

マオリの人口は着実に増えてきてはいますが、マオリ語の使用は確実に減少しているという事実も否めません。

 

 

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